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般若心経 読解

 投稿者:  投稿日:2014年10月20日(月)20時48分16秒 71d5eded.ip.ncv.ne.jp
返信・引用
  結論から申し上げます。

『般若心経』は、拝むものでも読経するものでもなく写経するものでもありません。

玄奘三蔵が仏陀の教えを漢字にしただけです。

古代インド語を漢字に「当て字」したものです。


般若心経は、仏陀が誰にでもわかるように簡単に教えています。

なので、学問・哲学的知識といったようなものは必要ありません。

般若心経は、『究極の心の安らぎを得るには、どうしたらいいの?』

という、誰もが知りたい事を教えてくれています。


「摩訶」 マカとは、マハーと呼ばれている古代インド語の言葉です。
意味は、特別とか偉大なとかいう感じです。

「般若」 ハンニャ、正しくは、パニャーという言葉です。
意味は、智慧、心の中から湧き出してくる仏智です。

「波羅」 パラーという古代インド語で、行く、とか、到達する、という意味です。

「蜜多」 ミターも、当て字ですが、蜜は、ゴーダマ・プッタの時代も、中国の玄奘の時代も貴重品でした。
意味は、内在とか家の中とかいった感じです。

つまり、「摩訶般若波羅蜜多心経」は、マハー パニャー パラー ミター チター スートラ となるわけで、その意味は、

『内在された、偉大なる智慧に到達する、心の教え』

です。

「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子」
直訳すると、観自在菩薩が、深く般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊はみな空なりと照見して、一切の苦厄を度し給う。
これでは、理解に苦しみますよね。
観自在菩薩とは、プッタがインドで法を説いていた時代、バラモン教のヴェダーやウパニシャドの経典に出てくる言葉で、「アポロキティ・シュパラー」と表現されているものです。
菩薩とは、ボサッターという言葉ですが、悟りの段階をいいます。
ボサッターの段階では、完全に執着から離れているというわけにはいきません。
ただし、心の状態は慈愛に富み、衆生済度のためには、身を犠牲にしても救済するという者達で、決してむくいを求めない境地に到達していることです。
仏像を見ると、観世音菩薩や弥勒菩薩その他の諸菩薩などは、ネックレスや王冠などを飾っていることでそれが良く解ります。

照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 の五蘊とは、眼耳鼻舌身から起こる煩悩のことです。

色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
→色は空に異ならず、空は色に異ならず、色はすなわちこれ空なり、空はすなわちこれ色なりと読みますが、「空」を、「むなしいものだとか、あると思えばなく、ないと思えばある」と説いている学者がいますが、間違いです。
すべて「心」の作用だ、ということです。
そして「色」とは、私達の眼で確認できる万世万物のことです。

受想行識 亦復如是 舎利子
→この意味は、「私達の心の作用によって、肉体的行為が現れ、肉体的行為があってまた心に作用するのだ。すなわち、色即是空、空即是色と同じ意義を持っているのだよ。シャリープトラーよ、すなわち諸々の比丘、比丘尼達よ」 です。

是諸法空相 不生不滅 不生不滅 不垢不浄 不増不減
→是諸法とは、「この諸々のあらゆる神理=タルマは」です。
→空相とは、「神の心の現れである」です。
→不生不滅 不垢不減 不増不減とは、生れず、滅せず、垢つかず、浄らかならず、増えず、減らず、です。
しかし、すべて否定しているから、無になると思ったら大間違いです。
「不変」だ、ということです。

是故空中無色 無受想行識 無眼耳舌身意 無色声香味触法 無限界 乃至無意識界
→「空」の世界、すなわち魂、意識の中心、心の世界は、肉体の五官をとおしてみたこの世とは、全く異なっているということを説いているのです。
「これゆえに、心の世界は、色すなわち物質的な万物もない、想行識を受けることもない。眼によって万生万物を見たり、声を聞くことも、鼻で匂いを嗅ぐことも、舌で味を知ることも、身で感触を知ることも、肉体的な現象の法もない。眼で見える境界もない」と否定している経文です。

無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無圭礙故 無有恐怖 遠離一切転倒夢想 究境涅槃
→無無明とは、否定の否定であり、迷いのない世界、です。
つまり、明るい光明の世界です。
亦無無明尽とは、光明の尽きることもない、ということで、無限の光明に満ち満ちているということです。
亦無無明尽 以無所得故とは、「空」すなわちこの世界においては、あたかも太陽がこの世の万生万物に、平等な慈愛の熱光りのエネルギーをそそいでいながら私達に光熱代を請求しないように、宇宙即我と自覚しているから、所得を得る必要がありません。所得を得るための知恵も必要がありません。それは、内在されている神の心、慈悲、愛の偉大な智慧の宝庫が開かれているため、この世の「色」の世界のように、苦楽の中で、新しい学習によって智慧を豊かにする必要はないのです。そして、すべての者は兄弟であり、大宇宙はすべておのれであるということを悟ってくださいね。
遠離一切転倒夢想 究境涅槃とは、「一切の、夢のような転倒した考え方を、遠くに離して、つまるところは最終的な悟りに入る」という意味になりますが、私達が五官でとらえたものと違って、心の世界、心の眼でとらえた、一切の執着を離れた世界ですから、これは精妙で平和な安らぎのある光景を説明しています。
これは、全く心の曇りがないため、光明が尽きることのない世界になっています。
よく仏像や仏画を見ると、後光の出ているのを見かけますが、これは、生きている人々にも出ているものです。
この後光は、淡い金色をしています。
心と行いが人の心の調和度に比例した光で、その光に包まれた人は、安らぎの心を持ち、一切の執着心から離れていることを証明しています。
しかし、怒り、恨み、妬み、そしりの心や、増上慢な心つまり天狗になってしまうと、心に曇りが生じ、その光は消えてしまいます。
地球上における不自然なスモッグは、不調和な曇りで太陽の光をさえぎるが、私達の心も同じことです。
人生の目的や使命を知ることはむずかしいものです。
しかし、このことを知った人は、生きる喜びを知り、感謝し、報恩の行為を実践します。
そこには、自己保存も自我我欲もなく、不自然な闘争も破壊もないのです。
このため、心は安らぎ、常に平和な生活を送っています。
苦楽の原因は、五官と心が作り出しているということを知って欲しいと思います。
一日一日の生活を反省しているとき、外界が真っ暗であっても、私達は、瞑想中に、眼の前が淡い金色の光におおわれていることを知るのです。
これが、光明の世界です。
不調和な人生を送った人々には暗黒の地獄界が展開されているといったふうに、あの世には、はっきりとした心の段階があるのです。
しかし、この世を去った私達を、神仏がその調和度に応じて天上界へ送ったり、地獄界に堕としたりするのではありません。
この世で、どんな生活をしたか。その自分自信の想念と行為の総決算が、自らにふさわしい霊囲気に導く、ということです。
この光明の世界は、今のような経済奴隷に成り下がった人達にはとうてい体験することはできないといっていいと思います。
導体に電流をとおすとき、その導体に抵抗が多いと、電気のエネルギーは、熱エネルギーに変わりやすいのです。
これは、河川における水の流れと同じです。
電流も、銅や銀や金の場合は、抵抗が少なくひっかかりがありません。
それは、電流が素直に流れるからです。
私達の心も、そのように、不調和な抵抗を作り出してしまうと、苦しみや悲しみを作り出してしまうといえます。
導体の抵抗が熱エネルギーに変わり、導体が溶けてしまうことがあります。
溶けてしまうと電灯は消えて暗闇になってしまいます。
人間は、暗闇になってしまうと、一寸先も見えないし、どんな危険物があるかも解らず、そのために恐怖心さえ生まれてきます。
導体が電流を流しても安全であれば、ひっかりがないため、暗闇による恐怖にさらされることもないでしょう。
つまりこれは、心の原理と同じものなのです。
悟った者達は、心が調和されているため、心にひっかかりがなく、一切の恐怖心もないから、光明のある、執着のない終局の悟りの世界を得ている、といえるのです。

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故智般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯帝羯帝波羅羯帝 菩提僧莎訶 般若心経

過去・現在・未来という三世を、あなたはどう生きるか。
転生輪廻を、どう生きねばならないか。
智慧の宝庫は、どうやったら開かれるか。
そして、光明ある彼岸に到着するには、どうすべきか。

是大神呪とは、これこそ大宇宙を支配している大神霊であり、是大明呪である。すなわち、これこそ大神霊より与えられている大光明の神理であり、是無上呪であり、つまりこれ以上の神理はないということです。
是無等等呪であり、すなわちこれと比較に等しい神理はない、ということです。
能除一切苦 真実不虚 とは、良く一切の苦しみを、人生の生老病死を原因として生ずる苦しみを除き、真実であって、偽りではない。
故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯帝羯帝波羅羯帝 菩提僧莎訶
悟りの彼岸に到達しよう、ということです。

カーティー、カーティー、パラカーティー、パラーサンカーティー、ボデースパハー、と読みますが、カーティーとは彼岸という言葉で、パラーは、到着するとか、行くという意味になります。
サンとは比丘、比丘尼すなわちサロモン・サマナーということです。
ボデーとは悟りをいい、今日ふうに訳しますと、

「彼の岸、彼の岸、彼の岸に行こう。比丘、比丘尼達も、悟りの彼岸に到着して、一切を成就しよう」

という意味です。

完。
 
 

「心経」の投稿について

 投稿者:  投稿日:2014年 5月27日(火)15時27分57秒 dhcp188-211.tamatele.ne.jp
返信・引用
  今日2014年5月27日

次の1~21則『私が頂いた般若心経』を投稿しましたが、是は私が馬乗山・海徳寺のホームページに寄贈していましたものを転記したものです。




 

『般若心経』始めに

 投稿者:  投稿日:2014年 5月27日(火)15時13分27秒 dhcp188-211.tamatele.ne.jp
返信・引用
  『般若心経』といえば、私達仏教信者は勿論のこと、他の宗派の方でも親しく誦経されている国民的なお経であることはご承知のとおりです。
 この経題の正しい呼名は『般若波羅蜜多心経』ですが、この教えの内容があまりにも偉大であり勝れているところから『摩詞』の二字を冠して誦んでいるのが一般であります。
 この二百七十余文字を普通の速さで読経して三分位、一字一字を味わいながらゆっくり読みましても五分位ですから僅かな時間で教えの功徳を受けることができるということも皆さんに親しまれている理由の一つかも知れません。
 この般若心経(以下心経に略します)は、一般ではお釈迦さまがお説きになったものと思っておられる方が多いようですが、これは観音という菩薩さまが、舎利佛多羅(しゃりほったら 略して舎利子)という佛十大弟子の一人に説かれたものとされています。
 従って『如是我聞(にょぜがもん)』(釈迦の説法を是のように聞いた)とか、『佛説』などという序文はなく、冒頭から『観自大菩薩』(真理を見抜かれる観世音菩薩)と説きはじめ『舎利子』という言葉が所々に出てきます。
 この経典は、お釈迦さまが入滅された四~五百年後に創作されたものとされていますが、今日一般に私達が誦んでいる心経は鳩摩羅什(くまらじゅう)という仏教学者が翻訳したものであると言われています。  以上のように、観世音菩薩が舎利子に説かれた真理を本文二百六十二文字、全文二百七十余文字という短い文章で、しかも理路整然と分り易く説かれており、六百巻もあるという『大般若波羅蜜多経』も要約すれば、この三百文字にも満たない心経の中に包まれてしまうと申してもよいでしょう。
 ところで、この有り難いお経も、説かれている意味のみを知ったからといって何の役にも立ちません。
 むしろ、内容はわからなくても、朝夕の勤経を欠かさず勤めて居る処に般若心経の真意が自然に現れていて、その人の生き方の道が知らず知らずのうちにそこにあると申しても過言ではないと思うのです。
とは申しましても、その意味を知り尽くした上でお勤めするに越したことはないのは申すまでもないことです。
 私がある写経の会の座談会に出席させて頂いた時のことです。ある中年のご婦人の方が 「私は何とかして心経に説かれている意味を理解したいと思いまして、仏教書を読んだり、法話を聞いたりしましたが、理解できるどころかますますわからなくなりました。それでさじを投げたというか、諦めましてこの写経の会に入会させていただいたのです。あれから三年にもなり、写経枚数も千枚近くなりましたが、今もって心経の意味がわかりません。でもわからないままに一字一字を写経していますと、いつの間にか自分というものが無くなってしまう時があるのです。その時がとても幸福に思えてくるのです。」
と、恥ずかしそうに話されました。私はそのお話を聞いて、心を洗われたような気持になると同時に、このご婦人は分からぬ分からぬと言われながら、すでに心経を実践されておられるお方だと思わず心の中で合掌したものでした。
 ここの海徳寺でも、観音日近くになりますと保存会の方々が参道の清掃をされたり、当日になりますと、お接待などの奉仕活動をされていますが、私の眼には観音さまの行として映るのです。
 このように私達日常の生活の中で、今やるべきことを何気なく、無心にやっている行動そのことが般若心経の真意にかない、またそのことが観音菩薩行ともいえるのではないでしょうか。
 

―私が頂いた般若心経―(その二)

 投稿者:  投稿日:2014年 5月27日(火)15時10分53秒 dhcp188-211.tamatele.ne.jp
返信・引用
  ―私が頂いた般若心経―(その二)

 第一号では、日常生活をはなれての心経はあり得ないという意味のことを申しましたが、本号から、心経の一字一字を味わってみましょう。
 まず心経を拝読して気が付くことは本文二六二字の中に「空」の字が七つ「無」の字が二一「不」の字が七つとまさにないない尽くしであることです。
これについては本文で触れることとして、次に気付くのは、「無眼耳鼻舌身意」とか、「無色声香味触法」などと、私達の本質を直接に指していることです。こうしてみますと、この心経は、今こうして生きている私達の、その場その場の事を問うているように思うのです。従ってこのお経の真意を本当に理解して、日常の生活の中に活用する為には、今こうしている自分の足下を忘れてはならないということになります。
 さて、本題に戻りまして、経題の「摩訶」の二字に迫ってみることにしましょう。

―宇宙大なる自己―
 先号で申しましたように、「摩訶」とは偉大であり、勝れているということです。では私達人間のどこが偉大で、何が勝れているというのでしょうか?
 お釈迦さまがお生まれになったとき、右手で天を指し、左手で地を指して「天上天下唯我独尊」(私はこの大宇宙の何ものとも比較できないほど偉大であり尊いものである)と、唱えられたと伝えられています。この真偽は別として、私達と同じ人間である筈のお釈迦さまだけが、なぜ尊いというのでしょうか。それともお釈迦さまは、「お前達も私と同じように天上天下唯我独尊であるぞ」と教えておられるのでしょうか。これが分かれば心経は、全部自分の持ち物として日常生活の立居振舞いの中にあると申しても過言ではありません。
 さて私達は、春夏秋冬という大自然の移ろいの中にあって、その時節に順応し暑ければ脱ぎ、寒ければ衣を重ね、あるいは春は植え、夏は草取り秋は取り入れなどと、自由自在に生活しています。言い換えると、人間という生物はこの大自然をうまく操って生きていると言うことができます。
 こう考えてみますと、私達一人一人はその置かれたる境遇の中で、此の大自然を自由に操る偉大なる王者であり、まさに「摩訶」なる存在と言えるのではないでしょうか。この疑問を解く為に禅宗の寺では坐禅という方法をとっています。私も海徳寺坐禅会に参加させて頂いていますが、早朝の禅堂の中に自分を置いて、複式呼吸を繰り返していますと、いつの間にか忘我の世界に引きずり込まれてゆきます。
 その時の様子はとても説明できるものではありませんが、敢えて申しますと、雀のチュンチュンが私か、私が雀のチュンチュンか、あるいは松を渡る風の声が私か、私が風の声か区別することのできない不可思議な境地なのです。私はこの時、大自然と共に今こうして生きている「摩訶」なる自分であったことを体験させて頂くのです。(次号は「般若」の二字に参ずることとします。)
 

―私が頂いた般若心経(その三)―

 投稿者:  投稿日:2014年 5月27日(火)15時09分22秒 dhcp188-211.tamatele.ne.jp
返信・引用
  ―私が頂いた般若心経(その三)―

 前号では、私たちひとりひとりが、大宇宙に目鼻をつけたような偉大なる存在であったことを知りました。
 では、その大人物が具えている知慧とはどんなものかということになりますが、これが本号の問題です。
 さて心経では、この知慧を「般若」と唱えています。でもこの知慧は、私たちが一般に言うている知恵とはどうも違っているようです。どこが違うかといえば、我々が思っている知恵は、後天的知識から生まれたものですが、般若という知慧は、生まれた時から持ち合わせている先天的な知慧であると思います。
 例えば、生まれたばかりの赤子に母親の母乳をさわらせますと、磁石に吸い付けられるように唇を寄せてチュッチュッとやります。又、生まれて数ヵ月しか経っていない赤子をプールに入れてやると犬かきで立派に泳ぐそうです。
 こうした知慧は、誰に教えられたものでもないことは申すまでもありません。
 このように私達人間は、生まれた時から、その場その場の環境にうまく適応する知慧の持ち主であったようですが成長するにつれて外部からいろんな知識を吸収して、我というものを意識するようになったのだと思います。
 すると当然のように、自分を中心とした欲望の心を起こし、憎い、可愛い、欲しい、惜しいという迷いの世界を自分で作り、自分がその中でもがき苦しんでいるのが、私達凡夫の現実ではないでしょうか。そして、自分を省みることをせず何とかしてその世界から逃げようとしてバタバタやっている……。なんとも情けない私であったことやら……。
 心経では、このような愚かで罪深き私を、何とかして救ってやろうとして「お前が、本来具有している摩訶なる般若の知慧に目覚めよ!」と手を差しのべて下さったのです。
 ところでこの般若の知慧だけは、他人から与えられるものではありますまいが、例えて申しますと、磨き抜かれた宇宙大の鏡のようなものだと思うのです。

 ―あるがまんまに受け取る知慧―

 御存じのように鏡というものは、その前に柳があれば「柳は緑」とそのままを映し、花があれば「花は紅」とそのまんまをそっくり映し取りますが、鏡の本体は、柳を柳とも、花を花とも思っていないでしょう。それと同じように、私達が、本来具有している般若の知慧が、この鏡だとしますと、生は生と受取り、死は死と受取り、苦楽ともに、そっくりそのまんまを受取ることになります。
 そしてしかも、生死の中に在って生死とも思わず、苦楽の真っ只中にありながら苦楽とも思わないはずです。
 こうしたあり方が、本当の自分であったのかと目覚めてさせて頂いたとき、“目が覚めてみれば恥ずかし寝小便”で、自分が垂れ流した生死苦楽の迷界で、のた打ち廻っていたことを恥ずかしく思うのと同時に、方々出世の祖師方の大慈大非のご恩はもちろんのこと、老師や諸先輩のお導き下さったことに感謝せずには、おれないのです。合掌
(次号では「波羅密多」の四文字に迫ることとします。)
 

―私が頂いた般若心経(その四)―

 投稿者:  投稿日:2014年 5月27日(火)15時07分41秒 dhcp188-211.tamatele.ne.jp
返信・引用
  ―私が頂いた般若心経(その四)―

 前号までで、私たちは、大宇宙の移り変わりと一つになって今こうして生きている存在であり、その大宇宙のルールに従って生きてゆく智慧の持ち主であることを知りましたが、「ウン分かった。」では単なる知識にすぎず、何の役にもたちません。
 そこでこの「般若」の知慧を日常の生活で一歩一歩確実に用い、大自然の摂理に背かぬ様に生きてゆくことが大切です。
 これが本号の問題である「波羅密多」の四文字なのです。
 「波羅密多」とは、訳して到彼岸(彼岸に到る)ということだそうです。つまり生死の迷いの此の岸から、仏さまが住んでおられるという彼の岸に往くということになりますが、一体彼の岸はどこにあるというのでしょうか?
 白隠禅師はその在り場所を“近きに在り、脚下を看よ”と申されていますが、近いと言えばこれ程近いものはない…分からないというのは只だ、此岸も彼岸も一切を包み込んでいる宇宙大の自己を見失っているだけ…、だから今此処でこうしている自分の処を探し廻ってみても、この彼岸を見付けることはできない訳です。
 結局彼岸の在り場所は、ある日何かの縁によって、“あっそうか!”と、確かに気付かせて頂く世界であると思うのです。だからどうしても、今、此処で、何気なくこうしている足元に在るということでなければなりません。
 この様に頂いてみますと、「波羅密多」と唱えられている彼岸は向こうに渡るということではなく、この身このまんまがすでに佛国土の中に救われているということになります。
 数年前、知人の奥様が心臓病で亡くなられました。生前の奥様は座禅聞法などにご熱心な方で国泰寺や佛通寺の座禅会には必ずといって良いほど参加されていました。
 その奥様がお亡くなりになる三日前、病院にお見舞いした時のことです。私が挨拶しようとするとそれを遮るように、「私に慰めの言葉は要らないのよ。皆さんは私を見て同情の言葉を掛けて下さるけど、私は何ともないの。苦しいのは苦しいけれどもね…、だって今私が寝ているこのベッドの上は、お釈迦さまご説法の特等席ですもの…。」と、途切れ途切れにお話になった言葉が今も耳を離れません。
 この時の奥様の境涯に、私ごとき者が言葉をはさむ資格はありませんが、あえて迫るとするならば、“この苦しさこそ釈迦牟尼佛のご説法”とそのまんま頂かれたのではないでしょうか。
 そして自ら彼岸の上に立って凡夫だらだらの私に、身をもって生きた説法をして下さったのだと思うのです。
 くどいようですが私たち佛教人は、生まれた時から天地一杯の佛の命、つまり摩訶なる般若の智慧を頂いております。
 そのお蔭で今こうして生きていると気が付いたとき、誰しもが思わず合掌せずにはおれないのではないでしょうか。
 この合掌の人こそまさに「波羅密多」という佛国土に住む資格のある到彼岸の人であると思うのです。
 

―私が頂いた般若心経(その五)―

 投稿者:  投稿日:2014年 5月27日(火)15時06分11秒 dhcp188-211.tamatele.ne.jp
返信・引用
  ―私が頂いた般若心経(その五)―
 私たちが、人間として此の世に生を享けた以上、生老病死という苦から逃れることはできません。どうせ逃れることができないのなら、ドカンとその苦しみの中に大アグラを書いて、夫は夫として妻は妻として、老人は老人として、病人は病人として、即今只今自分が置かれている足元のことをチャンチャンと片付けてみたらどうでしょうか。そこには苦とか楽とか名付けるものは無いと思うのです。とは言うものの死ともなれば人生の一大事…、これほど痛切なものはありません。これをどう片付けるか!口先だけで生死一如とか、生は生にまかせ死は死にまかせるだけ…などと呑気にかまえておられるご仁であっても、はたしてその通りに死を迎えることができるかどうか…。道元禅師も修証義の冒頭から「生を明らめ死を明らむるは佛家一大事の因縁なり。生死の中に佛あれば生死なし」と、佛教信者としての道をお示しになっていますように、どうしても避けては通れない問題です。この生死の問題を解決して、真の大安心を得るためには、誰しもが生まれた時から持ち合わせている般若の智慧に目覚め、日常生活の中で実践するほかに方法はないことは、申すまでもありません。この肝心かなめの処を『摩訶般若波羅密多心経』という十字をもって示されていると思うのです。
 さて今回のテーマは「心経」の二字です。ここで問題なのは“心”の一字です。一般に何気なく使っている“心”という言葉ですが、これほど身近くて得体の知れない代物が他にあるでしょうか?もしお分かりの方があればご教示願いたいと思います。恐らく答え得る人は無いでしょう。私たちはこの掴みどころのない物を名付けて“こころ”と呼びながら、いかにも実在するかのように思い込んで、その物から取り止めもなく出て来る、憎い・可愛い・欲しい・惜しいという世界を自分で作り、その中で自分が迷い苦しんでいるのではないでしょうか。この問題はどうしても“摩訶”なる“般若”の智慧に目覚めて、心を心とするべきものなし!と、体験的な確信を得るほかに解決方法はないと思うのです。
 次の「経」というのは、桟織の縦糸のことです。この縦糸は織物の表面には出ていませんが、横糸が織り出す色によってその模様が表に現れますように、私達は知らず知らずして大自然の摂理という縦糸に、般若の智慧という横糸をもって、春は植え夏は草取り秋は取り入れ、あるいは、暑ければ脱ぎ寒ければ重ね着をするなどと、その大自然の運行と共にその人なりの人生模様を織り出していると思うのです。そういう意味からしてこの「心経」の二字は、肝心かなめの処であると指示されているようにも見えます。こう頂きますと、この『摩訶般若波羅密多心経』の十字が本当に血となり肉となり骨髄に徹したならば、本文二六二文字は却って自分そのものであると言うても過言ではないと思います。ここに到りますと、日常生活の立居振舞いが佛作佛行となり、極楽浄土に住ませて頂いていることに感謝、合掌せずにはおれないのではないでしょうか。

     ―流れ去る波の間に間に身を委ね
                滝に落ちゆく花のひとひら―
 

―私が頂いた般若心経(その六)―

 投稿者:  投稿日:2014年 5月27日(火)15時04分50秒 dhcp188-211.tamatele.ne.jp
返信・引用
  ―私が頂いた般若心経(その六)―
 今回からいよいよ本文に入ることになりますが、この二六二字は、これまでみてきた『摩訶般若波羅密多心経』の十字を土台として説かれていますので、たびたび申しますように、この大自然の運行の中で現実に今こうして、大自然と共に生活している大いなる自分を差し置いて、文章の上だけで“般若の智慧”を探し求めても無駄骨だと思います。なぜならば、般若心経の全体は、私たち一人一人の本質を問うているからです。
 さて、この度は、本文の冒頭にある「観自在菩薩」とはどんなお方で、どこに居られるかを問題としてみたいと思います。
この「観自在菩薩」は“般若の智慧”に目覚め、何とかして世の為人の為になりたいという願心を持っておられ、それを着々と実践しておられるお方です。では、そういう尊いお方はどこにおられるかということになりますが、その居場所を示した好例がありますから紹介してみましょう。
 ある日「観自在」という菩薩が、補陀洛山で多くの人々を集めて説法をしておられました。その「観自在菩薩」が一人の修行者に「あなたは何を求めてこの山中を歩き廻っているのですか」と尋ねますと、その修行者は「この補陀洛山のどこかに、観自在菩薩という尊いお方が住んでおられるという噂を聞いたので、私の苦悩を解いて頂こうとして探し廻っておるのです」と答えました。そこで観自在菩薩は衿を正しながら…「修行者よ。お前さんがこの山中をいくら探し廻っても骨折り損のくたびれ儲けというものじゃ。もしお前さんがどうしてもその菩薩に教えを請いたいというのなら、その居場所を教えて進ぜよう…」暫く無言でおられましたが、じっと修行者を見詰めながら…「私の前に座ってござるぞ!」と示されたということです。つまり、生来の般若の智慧に目覚め、世尊の願心であるところの衆生済度(人の為になろう)という大心を持っている人なら、誰でも菩薩に成り得るということです。
 この海徳寺でも、毎月十七・十八日の観音の日になりますと、多くの「観自在菩薩」の方々が、お参りの方々に接待されているお姿を拝見することができます。この菩薩は、本来煩悩妄想の汚れ一点もない心の鏡の持ち主ですから、目前にあるすべてのものを、大底は大、小底は小、柳は緑、花は紅と、そのものの姿をそのまんま映し取って絶対に間違うことはありません。この様子を「観自在」…、つまり事実を事実として確実に、しかも自由自在に観ることができるのが人間本来の在り方であるというのです。
 ところが、私達は長い習慣から、この事実に対して自分の考えをもって左右しようとしますので、抜き差しならぬ迷路に入り込んで自らが苦しむことになるのではないでしょうか。つまり私達の心の中に、我を中心とした考えがありますから、それが邪魔をして事実を事実として受け取ることが出来ないのだと思うのです。したがって私達一人一人が、この大自然の中で生活しているという事実は、自分の考えをもって生活しているのではなく、お互いに助け合っているからこそ生活している…と云えるのではないでしょうか。
 助け合うということは、先ず他人のことを優先した考えのことであり、他人のことを優先するということは、自分を空しゅうして人の為に尽くすということでしょう。これが実践できる人は、自我という曇りがありませんから、事実をそのままに受け取ります。つまり「観自在」にその事実を見抜いてそれに応じた働きを、その場その場でチャンチャンとやります。これが菩薩であると思うのです。

―「菩薩」とは自己を空した心なり。
       心なければ誰も「観自在」なり。他に求むべからず。―
 

―私が頂いた般若心経(その七)―

 投稿者:  投稿日:2014年 5月27日(火)15時02分56秒 dhcp188-211.tamatele.ne.jp
返信・引用
  ―私が頂いた般若心経(その七)―
 今回は、「行深般若波羅蜜多時」、訓読して“観自在菩薩が「深般若波羅蜜多」を行ずる時”となります。ここで殊更に「深般若」と「深」の一文字を冠したかといいますと、世間一般に云う知恵と菩薩の知恵とは根本的に違っているからです。私達が普段思っている知恵は、学校とか書物とかテレビなど、他から得た知識でして、自分勝手にどうにでも変えることのできるものです。これを浅い知恵…つまり浅般若といいます。これに対して菩薩の般若の知恵は、題号に「摩訶般若」とありましたように、生まれた時から誰もが持ち合わせている、我他・彼此・是非善悪・有無など分け隔てをすることを全く知らない絶対的な知恵でして、これを「深般若」と云うたのです。
次の「波羅蜜多を行ずる時」とは、般若の知恵から自然に運び出る働きでして、自分のことは念頭になく、ただ、人の為のみを思って精進しているこの菩薩の、その時その場における生活の様子です。こういうことを申しますと、“人のことばかり考えておっては、自分の生活ができんじゃないか?”と思われる人もあるかもしれませんが、ご心配は全くいりません。なぜなら、誰しもが何気なくやっていることだからです。
 十一月に入って間もない朝五時半頃、私はいつもの様に犬を連れて散歩に出かけました。しばらく行きますと、溝に前輪が落ちた自動車を呆然と見ながら、立ちすくんでいる若い女性の姿が、ライトに浮かんで見えました。とにかく何とか手を尽くしてみようということでやってみましたがどうにもなりません。そのうちに一人二人と手伝いに来られて三十分後に道に戻したのですが、皆さんは泥まみれになった手足を洗おうともせずに、よかったよかったと自分のことのように喜んだのです。その笑顔の清々しさこそ、まさに菩薩心のあらわれだと思うのです。
 これは一例ですが、私達が生活する上においては、お互いに助け合わなければならないように出来上がっていて、自分中心の考えだけの生活は出来ない仕組みになっているのではないでしょうか?
 趙州和尚が住んでおられた街に、中国三大橋の一つに数えられる石橋がありました。その趙州の処に修行者がやって来て「いかなるか是れ石橋!」と問答を吹っ掛けて来ました。これは石橋のことを問うたのではなく、菩薩としての趙州の心を問うたのです。そこで趙州和尚は「驢を渡し馬を渡す…」、(わしの処の橋はな、馬でも猫でも大臣でも乞食でも、何でもかんでも渡す橋じゃ。遠慮はいらぬ、さあ通れさあ通れ…)と答えておられます。
 つまり、菩薩の心というものは、丸木橋のように自分だけが渡るといった小さな代物ではなく、馬でも牛でも一切のものを渡し渡してなお余り有る、例えば…この石橋のようなものであると云われたことになります。石橋といえば、驢尿馬糞にまみれながらも代償を求めず、常に他を渡すことのみを自分の仕事として、終に自分は渡ることはありません。これが「般若」の知恵という本来の自分の姿に目覚め、更にその完成を目指して修行した人の日常生活の様子であり、これが取りも直さず「深般若波羅蜜多を行ずる時」の菩薩といわれる人であると思うのです。
 この様な広大な人物になることは至難な仕事です。しかし受け難き人間としてこの世に生を亨け、こうした遇い難き佛の教えに逢うことのできた私達は、この佛の教えを見詰めながら、その時その場の足元にある佛道に悔いのないよう精進しなければならんと思うのです。

――佛の道 たずねたずねて ゆくうちに
                  己れが心に 突き当りたる――
 

―私が頂いた般若心経(その八)―

 投稿者:  投稿日:2014年 5月27日(火)15時01分34秒 dhcp188-211.tamatele.ne.jp
返信・引用
  ―私が頂いた般若心経(その八)―
 今回は、「照見五蘊皆空(五蘊は皆空と照見す)です。
 この六文字は、観自在菩薩が般若の深い知恵を以って、生死の迷いの世界から生死を超越した悟りの世界に到る修行の様子です。「五蘊」とは、私たちが今こうしているこの身を我だと思わしめている心という代物が実は“色受想行識”という取り得もない五つの寄り集まったものであると、見抜いた端的であると思います。そして、この五蘊の一つ“色”とは、人間という存在を含めて一切の色と形のあるものは、地(大地)、水(水分)、火(太陽)、風(空気)という四つの恵みによって生かされているものであって、どれ一つ欠けても存在し得ない…、言い換えれば、私たち一切のものは、この地水火風が寄り集まった仮の姿であるということだと思います。
 次の“受想行識”の四つは、この仮の身を操っている心の働きでしょう。例えば日常生活の中の事につけても、これは苦しいこと、これは楽しいことなどと分別していますが、これが“識”のなすわざで、この分別することによって苦は苦なり、楽は楽なりと心に受け止めることを“受”と申しています。そして、また苦につけても楽につけても、思い煩ったり、うきうきして止まらないことがありますが、これを“想”と呼んでいます。
 そして更にこの“想い”というものは、想いが想いを生んで蜂の巣を突いたようになり、収集がつかなくなることがあります。そして、遂には苦しさの余り死を選んだり、楽しさの余り有頂天になって、身を破滅に導いたりした例が多くありますが、この行動を“行”と呼んでいます。このように私が頼りにしていたこの身は、地水火風が仮に和合している姿であったわけです。そしてその仮の身を我が身であると信じ込んでこれまで生きてきた…。だから私は、私の身を愛するが故に、苦しいことを嫌い、楽しいことのみを追い求めて、憎い、可愛い、欲しい、惜しい…と、七転八倒の迷いの世界を輪廻していたのでした。
 こうした憐れな私に対して、「五蘊皆空」と、観自在菩薩は示して下さったのです。そしてこの四文字は私にとって晴天の霹靂…、脳天を叩き割られたような凄いお言葉であると思うのです。
 ここで思い出すのは二祖慧可大師と達磨大師の因縁です。慧可大師は若い頃から漢字や仏典を学んでおられたのですが、どうしても心の不安から離れることができませんでした。そこで少林寺に達磨大師を訪ねて「どうか不安を取り除いて下さい」と切々とお願いしたのです。すると達磨大師は「ではその不安という心を持って来い」と申されたのです。もし不安という心を持ち出すことができれば、それを取り除いて安心を与えてやろう、というお言葉のように見えますが、果たして“これでございます”と出すことができるものでしょうか。不安という心は確かにありますが、“これが不安という心です”と持ち出せる代物ではないことは誰でも分かることです。この得体の知れない心という代物に愚かな私はこき使われ、自ら作った苦の世界にあえいでいたのです。
 このように「五蘊」を根源として流れ出る私たちの苦楽というものは、己の影法師のようなもので、有って無いようなもの…。ここで全身全霊、畢竟「皆空」と受け取ることができればこの娑婆の四苦八苦も夢をみているようなもの…。そうなればはじめて次の「度一切苦厄」とありますように、一切の苦厄から離れることができると、示して下さったのです。

 ――この身をば 本来空と知りぬれば
                 苦楽の塵の付くはずもなし――
 

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